I like what I like

アイドルが好きです。

彼が守ろうとしたものは〜Defiled観劇覚書2〜

Defiled、2回目の観劇を終えました。

初見に比べて、冷静な気持ちで観れたので、ハリーという人間について、彼が起こした行動の根底にある部分は一体なんだったのか、それについて少し考察をしてみようと思います。

いつも通り、主観ばかりで申し訳ない考察です。

頭固いなぁ〜思い込み激しいなぁ〜と思いながら、書いています。

そういう捉え方もあるのね、と思っていただければ幸いです。

 

***

 

考えれば考えるほど、戸塚くんが、ハリーの気持ちがわからないと言ったこと、すごく納得できるなぁと思いました。

何故ならば、ハリーの根底にあるのは、飢餓だと思うから。物質的な意味ではなく、愛情への飢餓。

 

 ハンカチをお忘れではありませんか?〜Defiled観劇覚書〜 - I like what I like

初見後、ハリーは『親に捨てられそうな子供』に見えると書きましたが、それはこの愛情への飢餓から引き出された表情なのではないでしょうか。

親や家族から愛情を十分に注がれなかったことが、彼の未成熟な人格を作り出したのではないかな、なんて思いました。

自尊心が低いからこそ、人より優位に立ちたくて、そのために理論武装して、相手の言葉尻を捉えて徹底的に論破しようとする。

都合が悪くなると癇癪を起こして、相手を威嚇して、自分の主張を通そうとする。

ハリーは、とにかく子ども。しかも、反抗期の子どものよう。

十分に愛情を注がれた子供はあるがままの自分を受け入れられるけれど、そうでないと理想の自分を守ろうと必死に努力して、時には邪魔なものを排除してまで無理を通そうとする。

私の目には、ハリーは必死に自分を守ろうともがいているように見えました。

 

劇中で、ハリーが守りたかったのは、本当に図書館という神聖な場所だったのか、とふと思いました。

きっと、それだけではないと思います。

もちろん、彼にとって図書館は神聖な場所だったことには変わりないでしょう。

いうなれば、キリスト教にとっての教会であり、イスラム教徒にとってのモスクであり、ユダヤ教徒にとってのシナゴーグだったのかもしれません。

普段は礼拝堂には行かないと言った彼は、毎日図書館で祈りを捧げていたのかもしれません。彼のことを絶対に裏切らない家族でもあり、友人でもあり、恋人である『本』という存在に。

これはあくまで個人的な考えですが、本を読むのは、救いを求めることに似ていると思います。空想の世界を楽しむため、世界の理を知るため、自分の感情に名前をつけるため。そうすることで、持て余している何かをどうにかできるかもしれないから。

きっと、ハリーはたくさん本に救われたんだと思います。知りたいことを教えてくれる。道を示してくれる。そして、彼のことを傷付けず、いつも味方でいてくれる。それは彼にとって、神に等しい存在だったのかもしれません。

そういう意味では、本の住む場所である図書館は教会よりもっと高次の神殿のような場所だったのかもしれないと思います。

そこに置かれている目録カードは、彼にとって神の姿を探す手掛かりになる地図のようなものであり、神を守る者(司書)たちが刻んできた聖なる場所の歴史であったのではないでしょうか。だからこそ、ハリーはそれを守りたかった。

そんな神聖な場所(図書館)・もの(目録カード)、そして神そのもの(本)を守りたいという気持ちは嘘ではなかったと思います。だって、彼にはそれが全てだったから。

一方で、そんな神聖な場所に居る自分を神聖な者、言うなれば、神に選ばれた者として捉えていた側面もあるんじゃないかなと思います。

ハリーの主張を聞いていると、最初は「神聖な場所を守る」ことが目的だったのに途中から「神聖な場所を守るための聖戦をやり遂げる」ことが目的になっているように感じました。

前者はあくまで守ることが目的でそのための手段は多岐に渡っているはずだけど、後者は自分の手で守らなければならなくて、しかも、戦うことに意味を見出してしまっている。

目的のために戦う自分で在ることを守りたい、という感覚に近いのかなと思います。

冒頭の爆弾を書架に置くシーンで、目録カードが入っているチェストの上に足を掛けるとき、ハリーは靴を脱ぎました。やっぱり大事なものを土足では踏み躪ることが出来なかったのかもしれないなと思います。

でも、中盤でそのチェストの上に、靴を履いたまま上がったのが、なんだか腑に落ちなくて、その時にはもう目的が摩り替わっていたのかなぁと思いました。

彼が守りたかったものは、自分という一人の人間の尊厳だったのかもしれません。

 

ハリーがすごく身勝手な人間のように表現してしまったけれど、きっと本質的にはそうではなくて、彼にとっての譲れないものがそこにあったから、こういう行動を取ってしまったのかなと思っています。

それを考えるとき、

ハリーがなぜそこまでレガシーなものに執着するのか、

なぜそこまでテクノロジーを敵視するのか、

この二つが大きな鍵になっているのかなと思います。

 

私が考えたのは、レガシーなものは母の象徴であり、テクノロジーは父の象徴ではないかということ。

劇中で、ディッキーに対して小さい頃に本を読んでもらわなかったのか、という問い掛けをする場面があって、それを不幸なことのように捉えていたのは、ハリーにとっては、幼い頃本を読み聞かせてもらったことが幸福の象徴になっていたのではないかと思います。おそらく母親からもらった大切な思い出だったのではないでしょうか。

ハリーは、母というか母性に対して過剰なまでの執着を見せているように思います。彼が祈るのは母の命日だけということや、女性に対する過度な期待も。

きっと、ハリーにとって、お母さんの存在はとても大きくて大切なもの。

そのお母さんが読んでくれた本や、母が好きだった教会を大事に思うのは何も不自然なことではなくて、当たり前のこと。

作中では描かれていないから想像にしか過ぎないけれど、ハリーの中のレガシーなもの、たとえば紙の本であったり、整備されていない街の景色であったり、市場やカフェで感じる人の温もりであったり、それらに付随する思い出であったり、それを愛する気持ちの根底はお母さんの生き方を愛する気持ちなのではないかなぁと思います。

打って変わって、父に対しては反抗心や憎しみの描写が見受けられます。

彼が語る父との思い出は、合理的でないから、彼の望むコリーは買ってくれず、小さな犬を買ったという思い出。そして、それに反抗するように今コリーを飼っている。

お父さんがいつ亡くなったのかはわからないけれど、ハリーは彼とは和解することが出来ないままだったんだろうと思います。

現実にも、思い出の中ででも、ハリーはお父さんと和解することが出来ないまま大人になったのではないでしょうか。

だからこそ、合理的なことに対して徹底して反抗している。

だから、単純に目録カードがなくなることだけではなく、レガシーなもの(目録カード)が、テクノロジー(コンピューター)に淘汰されるということが許し難かった部分が少なからずあるのではないかと思いました。

目録カードに代わるものがもう少しローテクノロジーなものであれば、ハリーの反感はもう少し和らいだかもしれません。

彼の中にあるレガシーなものへの愛情を守るために、テクノロジーへの憎しみがより深くなっていく。ある意味で、母への愛と父への憎しみの代理戦争のよう。

だからこそ、彼はその聖戦に勝たなければならないと思ったのではないでしょうか。

目録カードを、図書館を、本を、ハリーの色々な意味での愛の証明として守りたかったのかもしれないなと思います。

 

もし、ハリーのご両親がもっと長く生きていたら、彼は父との思い出を意味があるものに出来たかもしれません。

あるいは、思い出はつらい思い出のままでも、お父さんと和解できていたら、合理的なものに対してもう少し寛容になれたかもしれません。

変わっていくことをもう少し受け容れられたかもしれません。

彼の愛情に対する飢えが少しは満たされたかもしれません。

そんな風に思います。

不幸な巡り合わせだと思います。

遣る瀬無いと思います。

どんなに上手く噛み砕こうとしても、やっぱり私には上手く噛み砕けません。

だからこそ、涙を流しながら、胸が張り裂けそうな思いになりながら、この作品のことをずっと忘れないでいようと思います。

ハンカチをお忘れではありませんか?〜Defiled観劇覚書〜

Defiled初見を終えたので、今思ったことを覚書として残しておきたいと思います。

もうね、めっちゃつらい。つらくてつらくて、終わった後にどうしようもない喪失感に襲われて、席を立って帰り支度をしながら、心が体を離れてどこかにいってしまったような気持ちになりました。

お話の内容について多分に触れているので、まだ見られていない方でネタバレを見たくない方は読まれないことをオススメします。

とはいっても、メモなしで一回見ただけなので、記憶違いももちろんありそうです。なので、ネタバレ見たい方にもオススメしません。

なんとなく全体通してそういう感じだった、というぼんやりした感じ。

とにかく自分が書かないと死にそうなほど落ち込んだから、なんとか文字にして昇華したくて、この記事を認めています。

 

***

 

涙腺が緩みすぎていると度々言われる私ですが、今回も案の定涙腺は緩みすぎていました。

開始1分で号泣。最短記録かもしれません。

オープニング、薄暗い図書館の中に一人きりで、黙々と書架に爆弾を置いていくハリーの背中を見た瞬間に涙が溢れてきて止まらなくて、自分でもびっくりしてオロオロしました。

あらすじでハリーの人物像を少し知っていたからこその涙だと思うんです。彼にとって神聖であった図書館を爆破しなければならないと思うほど彼を追い詰めたのは何だったのか、ここに至るまでどんな感情の変遷があったのか。そういうことを考えてると涙腺が壊れてぼたぼた涙が落ちてきました。

いいシーンだったんですよ。一時間四十分の中で、このたった数分のシーンが一、二を争うぐらい印象に残っています。

舞台上に現れたハリーを見た瞬間に、きっとこの人はとても強い意思を持った人間なんだろうなぁって思ったんです。戸塚くんすごい。瞳に宿る強い光や佇まいが、すごく良かったんです。決意を感じさせるというか、とにかくグッとくるものがあったんです。

(そもそも目録カードを存続させるためだけに図書館を爆破しようと思って、思うだけじゃなくそれを実行しようとすること自体が彼の意思の強さの表れではありますが。)

そして、オープニングの数分間、薄暗い静かな空間で爆弾を並べていく彼の様子が、神様に祈っているように感じられたのも心を揺さぶられた理由だと思います。

丁寧に、慎重に、書架にひとつひとつ爆弾を置く様子は、手順を踏んで、願いが叶うように、苦しみが取り除かれるように、人々が神様に祈るよう。その仕草は神聖に感じられるのに、その神聖さと行使しようとしている暴力とのギャップが少し怖くて、なんとも言えない恐怖感がふつふつと湧いてきて。

これは、やばい舞台を観に来てしまった……と怯えました。

 

もちろん、私がそんな怯えを抱いていることは関係なくお話は進んでいきます。

ディッキーが交渉のために図書館に入ってきて色々話をしていく中で、最初はとにかく頑なだったハリーの様子が徐々に変わっていく。なんだか子供みたいな表情や様子になっていく。無邪気だとかそういう陽の意味ではなくて、迷子の子供のような。

戸塚くんのこの辺りの表現は、とても自然で、上手で、更に彼の神様に愛された容姿がとにかくフル活用されてて、とにかく放っておけない気持ちになりました。

ディッキーと話していくうちに、彼の心の表層の固くゆるぎない部分にひびが入ってその中のやわい部分が見え隠れするようになるんです。

ディッキーに勧められたコーヒーを飲んだり、爆弾の起爆装置をしまって欲しいという要求に応えたり、徐々にディッキーに歩み寄っていくのがすごく自然に描かれていて、とても興味深かったです。

個人的には、本人が認識してるかどうかには関わらず、やっぱりハリーは寂しかったんだろうし、誰かに助けてもらいたかったんだろうなぁって思います。孤独だったんだろうなって。

きっと長い間、そばにいてくれる家族も、信頼できる友人も、味方でいてくれる恋人もいなくて、光も音も温度もない自分だけの世界で生きていて、その孤独な人生の中に存在していた唯一の宝物が、本と図書館だった。だからこそ、図書館を理想の形にしておくために目録カードにそこまで執着したんじゃないかなと思います。

でも、彼がしたことが正しいとは思えないです。自分の気持ちを伝えるためにはもっと言葉も時間も心も尽くす必要があるし、相手の立場を理解する必要もある。それを彼が行なったとは思えない。(きっと、目録カードのこと以外でも)そんな怠惰さと傲慢さが許せないとは思うけど、彼だけを責めることは出来ない。

彼の生き方はすごく不器用だと思います。生きるためには、世界が自分の思い通りにならないことを知らなきゃいけないし、一時的にでも諦めることをしなきゃいけない。そんな不器用さが悲しいと思うけれど、それが悪だと思うことは出来ない。

そんなことを考えてたら、頭の中ぐるぐるぐるぐるしてきて、あーもー疲れたぁって思いながら、ハリーとディッキーの言い争い(というかハリーが一方的に反抗してる)を見ていると、本当にハリーのめんどくささにイライラしてきて。

勘弁してよと思いながらも、そのシーンにやたらと既視感を感じて、ハッと気付いたんです。

あれ、これ、中高生の頃の私では……?

ハリーの様子が、反抗期に母親と大喧嘩してる自分みたいでとても怖かった。自分が自分の(誰かの)理想の姿で在れないならもう死んだ方がマシ、とかそういう風に考えていた頃の自分を見ているようで怖かった。

母親とは、もういい、あんたには何にもわかんない!あんたが死なないなら私が死ぬ!ダッ(家を飛び出して捜索される)みたいな喧嘩をたくさんしました。あの頃はすごくパワーが有り余ってたんだと思います。内向きに向かっていた力を私の体では受け止め切れなくて、溢れ出たそれは外に向いてしまった。それを表現する術がなくて、言葉という一番鋭利な刃物を手にしてしまった。

でも、当時の私はそんなことを言いながらも、心の中では、もう自分ではどうしようもないから、誰か助けて!と必死に叫んでいたし、それでも見捨てられないことへの甘えと、見捨てないでほしいという切実な願いがあったから、ハリーにもそういう部分があるんじゃないかと思えてしまった。

だから、どうか誰か彼を助けて欲しい、と今度はこちらがお祈りモードに。

ディッキーが図書館から出て行こうとした時のハリーの動揺や、彼が本当に出て行ってしまった後、外してあった受話器を元に戻した行動は、親に捨てられそうな子供のようで、正直見ていられなかったです。

あーもう!早く戻ってきてよ!そして今すぐ、彼を抱き締めてあげてよ!

そう思うとまた涙がぼたぼた落ちて、若干嗚咽が溢れました。

 

劇中で、ディッキーが難しい交渉と簡単な交渉の話をするんです。

その基準は、時間がかかるかどうかではなくて、簡単なのは、相手が投降したがっている場合、難しいのは、相手がまっとうな理論が通じる相手じゃない場合、という話。(難しい時の表現は別の言葉だったのだけど、使うことが憚られる言葉なので置き換えました。)

ハリーとの交渉について、ディッキーは簡単だとは思っていないけど、難しくはないと感じているようでしたが、私もかなり終盤までは同感だったんです。

投降したいわけではないけれど、話をしてお互いに折り合いがつくところが見つかれば、もしくは、ハリーが諦めれば、きっとなんとかなるよね、とすごく楽観的に考えてました。

私がハッピーエンド至上主義というか、みんなが幸せになれる世界が好きだから、出来ればそうなって欲しいという希望もあって。

なので、ディッキーがした提案にハリーが頷いて、握手をして、抱き合った時、心底ホッとしました。これで穏やかな気持ちで帰れると安心したんです。

安心したんです。

それなのに、それなのに……ハリーが図書館へ新刊カードに拘って戻った瞬間、その行動の意味がわからなくて混乱はするし、それによって引き起こされる結末はとても悲しくてなんでなんだろうと遣る瀬無い気持ちでいっぱいになるし、結局、私の頭の中って、お花畑なんだなぁとショックを受けるし、とにかくびっくりして、悲しくて、つらくて。

一番しっくりくる言葉は『虚しかった』。

ハリーの気持ちがわかるとは言わないけど、なんとなく想像はついて、でも、ディッキーの言い分もよくわかる。だから、すごく遣る瀬無いよね。

もういいじゃん、新刊の目録カードなんて諦めなよ、きっとそれよりもっと大事なものってあるよ、という常識的な部分と、いや自分にはこれしかないから、普通の、日常の生活なんていらない、思い通りにならないなら死んだ方がマシという偏った部分。

どちらも想像出来るから、どちらにとっても救われない結果になったのはすごくつらかったんです。

もし、あの場面で誰かがハリーを撃たずに、もう一回交渉をしていたなら、もしかしたら結果は変わったかもしれないけれど、あの場面で彼を撃った誰かの行動も理解出来る。

全体的に、どれも頭ではわかるけど、気持ちがついてこなくて、だから、終わった後、放心状態になってしまって、ハリーの最期の辛そうな演技を見ていてじゃんじゃん流れてた涙がすんと引っ込んでしまいました。

 

一日、色々整理して思ったのは、

主張も信念も素晴らしくて間違ってなかったとしても、そのやり方を間違えれば悲しい結果になるんだなぁってこと。

ありきたりな表現ではあるけど、暴力は暴力しか生まない。一度拳を振り上げてしまうと、同じように相手も拳を振り上げるしかなくなっちゃう。

小学生ぐらいの頃に、ニュースを見ながら、ふと思った疑問を父親に投げ掛けたことがありました。

殺人を犯した人にもそうしなきゃならない理由があったんじゃないの?

そんな私の純粋な疑問に、父は答えたんです。

そうでない場合も、そうである場合もあるけれど、理由があるかどうかが問題じゃない。理由があったとしても、それが誰かを傷付けていい理由にはならない、って。

そりゃそうだ。

ハリーは誰かを殺したかったわけではないけれど、彼が訴えようとしたのはまぎれもない暴力で、理由があっても暴力を振るっていいわけじゃない。

だから、それは彼が間違っている。

けれど、その彼の理由を無視してしまうのはやっぱり横暴に感じちゃう。理由も聞かずに捩じ伏せるなんて、救われないと感じてしまう。

そういう意味では、ハリーはほんの少しだけ救われた部分もあるのではないかと思います。人生の最後に、理解は出来なくても彼の気持ちをなんとか理解しようと歩み寄ってくれて、一緒に問題を解決しようとしてくれたディッキーに出会えたことは幸せだったのかもしれないと思います。

でも、やっぱり辛いけどね。

またあまちゃんなことを言うけれど、ハリーがもっと早くにディッキーのような人と出会っていたら、彼の人生はまた少し違っていたのかもしれないなぁと思うから、やっぱり辛いです。

 

最近、とてもタイムリーに誰かに対して「理解できないなぁ」とか「面倒だなぁ」と思った時ほどきちんと向き合わなきゃいけないなぁ、と思うようになっていたんです。

私にとって取るに足らないことでも、その人にとってはすごく大事なことで、どうしてもクリアにしておきたい問題だからこそ、声を上げているのだとすると、それを邪険に扱われたらその人はすごく悲しい思いをするんじゃないかなと思ったから。

それを知人に話した時に、「志は素晴らしいけど、心を尽くしても伝わらない相手もいるよ」と言われて、正直ショックを受けました。でも、そんなことないよね、意味のあることだよねって思うことで自分を奮い立たせようとしていたんです。

でもね、この舞台を見て、話のレベルは全然違うかもしれないけど、あぁ、伝わらないこともあるんだな、って痛感しました。それならどうしたらいいのかなぁ、って少し悩んでしまいました。

悩んだけど、もしも伝わらなかったとしても、私はきちんと向き合いたいなぁって、誰かの理由に寄り添っていきたいなぁってそういう風に思いました。

私は、わかってもらえないことも、一人になることも、やっぱり少し寂しいから。

 

本当にすごくすごく考えさせられる舞台。

今回は目録カードが神聖なものとして扱われていて、やり方は誰も巻き込まずにただ図書館を爆破するというやり方だったけど、もっともっと色んなかたちで同じようなことが世界中で起こっているんじゃないでしょうか。

大事なものって人によって違う。だからこそ、大事なものを守ろうと今日も誰かが必死になっているし、そのせいで悲しい思いをしている人もいる気がします。

もうほんと勘弁してほしい辛すぎるよ〜、と思いながら書いてたら涙と鼻水がぼたぼた落ちてきて、苦しいのなんのって。

だからこそ、思考停止せずに思ったことをこうして残しておきたいなと思いました。

今回は個人的な事情でとても偏った部分にしか触れられないまま五千文字を消費したのだけれど、他にも、アンチテクノロジーだとか紙の本の良さだとかいっぱい思うこともあったし、戸塚くんと勝村さんの演技や舞台の演出という観点でも、とても心を揺さぶられる舞台だったから、落ち着いたらもう一回感想を書けたらなぁと思っています。

 

総括すると、ハンカチは二枚持っていくべきだった。

人生は人を欺かない〜映画「黄色い涙」〜

どうしても好きな作品というものがある。映画でも本でも音楽でも、いつでも心の隅っこに静かに在って、ある瞬間に突然思い出して触れたくなる作品。

私にとっての「黄色い涙」は正しくそんな作品だ。

黄色い涙 【初回限定版】 [DVD]

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初めて見たのは大学生の時。それから折に触れて何度か見返してる。面白いわけではない。何も起こらないし、大団円なわけでもない。それなのに、じんわりと染み込むように心の奥に入ってきて、自然とそこに住み着いてしまう。そんな不思議な力を持っている作品だと思っている。

 

あらすじについてはこちらを。

黄色い涙 | 最新の映画ニュース・映画館情報ならMOVIE WALKER PRESS

 

 

この作品が描いているのは「人生」だ。

漫画家、歌手、小説家、画家。目指すものは違うけれど、それぞれの夢を追い掛ける四人が、自分の好きなことだけをする「自由」な夏を共に過ごす。夏が終わった後、結果的に好きなことを続けていたのは栄介一人だった。

栄介の姿勢は一貫している。大勢に流されず、自分の好きな漫画を描きたい、時代の流れに乗れなくても、自分が信じたものを描き続ける、そんな強い信念が感じられる。ひと夏をかけて描き上げた原稿は、出版社では受け取ってもらえなかったけれど、汽車の中の子どもを笑顔にすることは出来る。母の葬儀から戻って、かつての恋人であったかおるが自分の夫を担ぎ出してまで持ってきた連載の話を自分の信念にそぐわないから断ってしまう。迷いながらも愚直なまでにその姿勢を貫いてゆく。

圭と竜三は、夏が終わると同時に夢を捨ててしまう。章一がどこで夢を捨てたのかははっきりと描かれてはいないけれど、おそらくラジオ放送で戻り雨を歌った後直ぐではないだろうか。栄介への手紙の中で、圭はこう綴っている。

絵や小説のためだけには生きられない。

隣に人がいれば、その人の為に何かをやってしまう。

1人になると、すぐ誰かを探しに出歩いてしまう。

意志の弱い、平凡な人間達だった。

そういう普通の人間達だったという事です。

もしかしたら、栄介のアパートに三人が転がり込んできた時から、この結末は決まっていたのかもしれないなと思う。

好きなことだけを続けることは、時にとても孤独なことだ。誰からも理解されないことだってきっとたくさんある。その中で、好きだから、という強い意思の力でずっと続けていかなければならない。費やした時間と労力が報われなかった瞬間の挫折感は言い知れないものがある。それでも、立ち上がって続けていかなければならない。それしか自分にはないのだから。それが、好きなことだけを続けるということではないだろうか。だからこそ、それはきっと、誰にでもできることではない。

三人は、この夏を通して自分がそれを出来る人間ではないと気付いていしまったのだろう。

三人の中で、きっと一番にそれに気付いていたのは竜三だったと思う。もしかすると、冒頭の栄介の母のために一芝居打つシーンより前に、竜三は自分が好きなことだけのためには生きていけないと気付いていたのではないかと思う。(栄介が竜三に声を掛けた時に、竜三は求人広告を見ていた。)それでも、まだ燻る夢への思いがあったから、同じように夢を追い掛けている栄介の元へやってきたのだろう。けれど、竜三は夏の間、小説を書かなかった。書けなかったという側面もあるだろうが、きっと、書かなかったのではないだろうか。作中でモンテルランの詩の一部を口にするシーンは、竜三の迷いの表れで、夢を捨てる自分の背中を押そうとしているようにも感じられる。圭と章一も、竜三と同じように、自分一人では不安で、誰かのそばに居たくて、栄介を訪ねてきたのではないだろうか。

結局、三人は三人とも、夢のために孤独になることが出来ない平凡な人間だった。普通の人間だった。そのことに、この夏を通してそれぞれの形で気付いてしまった。

栄介の元を去る三人からの別れの言葉として送られたモンテルランの詩はとても印象的だ。

人生を前にしてただ狼狽するだけの
無能な、そして哀れな青春だ
今、最初のシワが寄るころになって得られるのが
人生に対するこの信頼であり この同意であり
相棒、お前のことなら分かっているよ
という意味のこの微笑みだ
今にして人は知るのだ
人生は人を欺かないと
人生は一度も人を欺かなかったと

 

努力や苦悩が必ず報われるとは思わない。報われないこともきっとたくさんある。(もしかすると、報われないことの方がたくさんあるかもしれない。)けれど、それが無駄なことだとは思わない。目に見える、思い通りの結果に繋がらず、花を咲かせることはできないかもしれない。けれど、それは自分という土壌の中に蓄積されて肥料となり、咲かせたかった花とは別の花かもしれないけれど、必ず美しい花を咲かせることが出来る。

この夏、夢を諦めた三人は「挫折」したのではなく、「成長」したのだろう。この夏の経験は、彼らの人生を豊かにすることに繋がっているのだと思う。

 

夏のはじめ、「自由」とは何か、と栄介が問いかけた。圭は「好きなことを好きなようにやっていくこと」と答える。「自由」なひと夏の結果、三人は好きなものを手放すこととなった。

では、彼らは「自由」ではなくなったのだろうか。私は、そうは思わない。

私の考える「自由」は、自分で決めた道を歩むために、自分で考え行動し生きていけること。彼らが選んだ道は、好きなことをする道ではなくなってしまったけれど、それでもやっぱり「自由」だと思う。だからこそ、SHIPでの同窓会で皆は笑っていたのではないだろうか。彼らが「自由」である限り、きっと、人生は、彼らを欺くことはない。

 

ところで、四人に目が行きがちなこの映画で、意外といい味を出しているのが、祐二だと思う。

祐二は四人と違って堅実さを絵に描いたような青年。四人と交わりながらも、それに流されることなく、自分の道を歩み続ける。東京オリンピックを目前にした浮き足立った世相を表すような四人との対比で、地に足のついた生き方をしている祐二が描かれていることで、最初から最後まで普通の人間として生きる選択肢を提示しているようにも感じられる。

 

人生って、とても恐ろしい。
道はいつも真っ暗な闇の中にあって、進んでいるのか、戻っているのかすらわからない。先の見えない不安に時々押し潰されそうになることもある。でも、「黄色い涙」を見た後は、少しだけ気持ちが軽くなる。これでいいんだ、と思える。

楽をせずに、少しずつでも、たとえ進む方向が変わってしまったとしても、今思う進むべき道を進んでいけば、きっと、人生は私を裏切りはしない。きっと、今やっていることは無駄ではない。そんな気持ちにさせてくれる。

ABC座2016 応援屋

ただ自分が思ったことを残しておきたいと思います。

行間についてはそちらでよろしくという部分も多々あったから、私は私の都合のいい解釈をしています。

 

人間は、コンピューターに勝てる

コンピュータテクノロジーの発達は、人間の生活を便利にした。大抵のものはワンクリックで手に入るし、調べたい事柄は検索すればすぐに知ることが出来る。今まで店頭に足を運び、面倒な書類のやりとりが発生していた手続きだって、全てネットで完結する。

現代人は、とにかく時間がない。だから、できるだけ時間も手間も省きたい、無駄な労力はかけたくない。だから、時間や手間がかかることは嫌われる。より早く便利に、無駄なく。それが時代の総意のように考えられて、多くの企業がその方向を向いて進む。隊列を乱さず、一心不乱に進んでいく。

その結果、確かに便利になった。時間も労力もかからない。電車の中でベッドの中で、モノも情報も、ほとんどのものが指先だけで、手に入る時代になった。

でも、その指先が触れるのはいつも無機物ばかりで、伝わる温度はない。

煩わしさを徹底的に省いて、便利さを追求すると、人と人との繋がりはどんどん希薄になって、この世界に自分以外の体温が存在していることを忘れさせてしまう。

まるで、世界から「人間」という存在が欠落してしまったようで、私は、それがすごく怖いことだと思っているし、とても寂しいことだと感じていた。

 

そんなわたしの思いに、舞台上で描かれる、いしけんがDIGITAL COOPSより応援屋を選んだことや、桂馬がキャタナに勝ったことがぴったりマッチして、涙が止まらなかった。

コンピューターは確かに人間より優秀だけど、それだけじゃだめなことってあるんじゃないだろうか。

 

いしけんが応援屋を始めたのは、寂しかったからなんだと思う。

人の心は数学だ、といしけんは言うし、大まかな部分ではそうだと思う。もちろん、それだけじゃない部分もあるけれど、それまで自分ひとりで世界と闘ってきたいしけんにとっては、人の心もデータから答えが導き出せると考える方が心の安定を保つことできたんじゃないかな。

自分以外の世界から自分を守るために、コンピューターとデータに頼ってたいしけんを、社長との出会いが変えた。コンピューターとデータより、人間をいしけんは選んだ。埋められなかった寂しさを埋めたのは、人の優しさや温かさだったんだと思う。

 

コンピューターって実際すごい。実際に囲碁・将棋の世界ってAI優勢のような流れがある。

覚えられるデータ量も違うし、先を読む能力だって、コンピューターの方が優れているのは事実だし、仕方ない。そのために作られてきたものなんだから。

桂馬がキャタナに勝つのは、筋書き通り、という感じだったけれど、その勝ち方が良かった。

負けそうになった時、応援屋に助けられる。それでも、やっぱり勝つことは難しかった。桂馬は、彼らに裕美子さんを探しに行くように言って、一人でキャタナに向かい、勝った。

よく出来た奇跡だけど、人間に助けられることで人間は驚くべき力を発揮する、という描かれ方がすごく好き。

一人じゃだめで、誰かがいないとだめで、それは人間じゃなきゃだめ。

私はあのシーンをそういう風に解釈している。

 

応援する=一人にさせないということ

「応援」って、応援する相手がいないと出来ない。その行為は、世界に自分以外の人間が存在していることを強く感じる行為だと思う。

「幸せを循環させる」。応援という行為についてのいしけんの台詞がすごく好き。

応援するって、きっとする方も、される方も幸せなんだ。された方は、一人じゃないと思うことが出来る。でも、それってする方も一緒で、誰かを応援することで、自分は一人じゃないことを強く感じることが出来るんじゃないかな。

 

クリクリは引きこもった狭い世界から桂馬を応援することで、夢を叶えられなかった自分の人生を追体験していただろうし、桂馬がいることで救われたこともたくさんあると思う。プロ棋士として活躍する桂馬に一度でも勝ったことがあるということが、クリクリにとっては誇りだったんじゃないかな。

キャタナに負けた後、将棋に全てをかけた自分の人生すら否定しようとしていた桂馬は、クリクリの言葉や、それまで何の接点もなかった応援屋の面々に、「あなたは僕らの希望」とまで言われて、心が動かされた部分もあると思う。キャタナに負けて自暴自棄になった自分を応援して支えようとしてくれる人がいることってとても心強いことだったんじゃないだろうか。

 

裕美子が一人になろうとしたことを、結果的に応援屋の面々は阻止するんだけど、それが最善だったのかはわからない。もしかしたら、やり直した後の人生は希望に満ちていたかもしれない。でも、もしかしたら、とても寂しい人生だったかもしれない。

だって、きっと彼らが裕美子を探して、裕美子を止めようとしなければ、美穂の友達に会うこともなくて、ポーチに残された美穂の想いを知ることもなかったんだから。きっと、裕美子にとって、社長や美穂と過ごした長岡での日々はずっとずっと悲しい思い出になってしまったと思う。

一人ってとても寂しい。いしけんは、それをわかっていたから、社長と裕美子を一人にさせまいとしていたのかもしれないな、と思う。

 

応援する=一人にさせないこと、と考えると、ジョーが社長と裕美子に言った「二人の悲しみは絶対にわかりません。でも、そばにいることは出来ます。」という台詞は本当に応援そのものなんだと私は思う。

今回の舞台が始まってすぐ、応援されるってなんだ?、と考えたことがあった。

応援することは馴染み深いけど、応援されるって今ひとつわからなかったから。

例えば、仕事が大変な時に「できると思うよ!頑張りなよ!」って言われるのが嬉しいか……今ひとつ嬉しいとは感じられなかった。

でも、ジョーの台詞を聞いて、応援されることがストンと胸の中に落ちた。肩代わりしてもらえなくても、そばにいて見守ってくれるってとてもありがたくて心強いことだな、力が湧いてくるなって。

 

ジョーについて

お人好しだけど、頑固。馬鹿だけど、正義感が強い。高校野球マニアのジョーという役は、元から応援する側としての役割を持たされてたのかなと思ってる。

いくら修也に言われても辞めなかったコンビニのバイトを辞めて、人を応援するなんていう胡散臭い会社に、いしけんにズバリと自分のことを言い当てられたことだけで、一つ返事で飛び込んでいけるような素直さ、という馬鹿さはなんなのか。その辺は個人的に釈然としないんだけど、修也のことを考えてた部分もあったのかなぁ、と思っている。修也をわかってくれる人がいる場所に修也の居場所を作ってあげたかったのかな、なんて。

どんなときもにこにこ笑ってたジョーが、最後の最後に、裕美子さんが死んじゃったら…って不安を口にするクリクリに対して、声を荒げる。すごく戸塚くんっぽい役だなぁと思った。

 

ジョーを演じてる戸塚くんは本当に楽しそうだった。

戸塚くんが演じる役ってどうしても陰がある役が多い。楽しそうなのに、寂しげに感じたり、嬉しそうなのに、悲しげに感じたり。そういう陰の部分を周りから押し付けられがち。(その気持ちはとてもわかる。)

ジョーには、陰の部分が限りなく少なくて、ただ明るくて熱くていいやつで、馬鹿だった。

戸塚くんは戸塚くんなりにもうちょっと考えていたのかもしれないけど、私にはその明るい部分がすごく輝いていて、新鮮で素直な気持ちで見ることが出来た。

Change Your Mindのジョーは最高に楽しそうで、サポーターズのジョー(というか戸塚くん)は最高に力強くて、そのパワーだけですごく幸せな気持ちになれた。

 

今回のお話について、個人的に一回で終わらせるのとても勿体無いと思っている。一つの応援は終わったけど、まだまだたくさん他の応援を見てみたいという気持ちが強い。勿体無い!続きが書きたい!と思うほど魅力的。

そんなキャラクターを生み出してくれ、全編通して心に響く音楽を作ってくださった西寺郷太さんと、さすがと思わせる演出をしてくださった錦織さん、キャストやスタッフの皆さんに感謝。

たぶん、私にとって、大事な思い出になる。宝箱にしまって時々取り出して眺めたい。

楽しかった!ありがとう!からの全身全霊!